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大阪高等裁判所 昭和32年(ネ)200号 判決 1962年12月06日

控訴人(原告) 牧興業株式会社

被控訴人(被告) 大阪府生野府税事務所長

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は「原判決を取り消す。被控訴人が控訴人に賦課した昭和二三年度(昭和二二年九月一日から同二三年八月三一日まで)の法人事業税を金一、五五五、四七〇円とする課税決定を取り消す。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は主文同旨の判決を求めた。

当事者双方の主張ならびに証拠関係は、

控訴代理人において、控訴会社の商号および増資の経過は、(一)昭和一四年九月二七日立花サンダル工業株式会社設立、資本金五万円、(二)昭和一八年一月二七日商号変更、牧製靴工業株式会社、(三)昭和一八年七月二〇日資本増加五万円、総額一〇万円、(四)昭和一九年八月三一日商号変更、牧軍需工業株式会社、(五)昭和二〇年九月一〇日商号変更、牧製靴工業株式会社、(六)昭和二一年一月二八日資本増加九五、〇〇〇円、総額一九五、〇〇〇円、(七)昭和二一年一二月二日資本増加五〇五、〇〇〇円、総額七〇万円、(八)昭和二三年四月二三日資本増加二三〇万円、総額三〇〇万円、(九)同年五月六日資本増加二〇〇万円、総額五〇〇万円、(一〇)昭和三〇年七月二七日商号変更、牧興業株式会社であると述べ、被控訴代理人において、右事実は認めると述べ……(証拠省略)……

たほか、原判決の事実摘示のとおりであるから、ここにこれを引用する。

当裁判所は、職権により、証人小林諒(第二回)、控訴会社代表者牧嘉六本人(第一、二回)を尋問した。

理由

一、控訴会社は、昭和一四年九月二七日立花サンダル工業株式会社の商号で設立せられ、その後商号を昭和一八年一月二七日牧製靴工業株式会社、昭和一九年八月三一日牧軍需工業株式会社、昭和二〇年九月一〇日牧製靴工業株式会社と順次改め、昭和三〇年七月二七日現在の商号に変更したもので、資本は、設立当時五万円で、その後昭和一八年七月二〇日に五万円、昭和二一年一月二八日に九五、〇〇〇円、昭和二一年一二月二日に五〇五、〇〇〇円、昭和二三年四月二三日に二三〇万円、同年五月六日に二〇〇万円を順次増資して現在五〇〇万円の会社となつていること、控訴会社が本件事業年度(昭和二二年九月一日から昭和二三年八月三一日まで)の法人事業税の申告をしなかつたところ、昭和二八年八月五日被控訴人より控訴会社に対する本件事業年度の法人事業税金二、一一八、二九八円の納付督促状が控訴会社に送達されたので、控訴会社は同年八月一二日被控訴人に対し、同年七月一五日附でなされた右事業年度の法人事業税を金二、一一八、二九八円とする課税決定に対する異議の申立をしたこと、被控訴人は、これに対し、昭和二九年一月二一日、右法人事業税を金一、五五五、四七〇円(事業税割として事業税額の一〇〇分の一〇の都市計画税をふくむ。以下同じ)とする更正決定をなし、同決定が同月二三日控訴会社に送達されたことは、いずれも当事者間に争がない。

二、控訴人は、まず、前記被控訴人の昭和二八年七月一五日附課税決定は控訴会社に送達されていないと主張するので、この点について検討するのに、原審証人織田律の証言により成立の認められる乙第一、二号証、右証人および当審証人塩谷励治の各証言により成立の認められる乙第六号証、右塩谷証人の証言により成立の認められる乙第七、二九号証と右各証人の証言に前記の争のない事実を総合すれば、被控訴人は昭和二八年七月一五日控訴会社に対する本件事業年度の法人所得を金二五、六七六、三五四円、法人事業税を金二、一一八、二九八円とする決定決議を了し、右決議にもとずき、納期限を同月二七日とした右法人事業税の納税告知書を作成したうえ、即日これを控訴会社宛に郵便で発送したが、右納税告知書はその後被控訴人に返戻されていないことが認められ、また、成立に争のない乙第三号証および当審証人小森諒の証言(第一、二回。ただし、後記措信しない部分をのぞく)によれば、控訴会社が昭和二八年八月一二日附で被控訴人の同年七月一五日附の右課税決定に対し異議を申し立てるに当り、その異議申立書(乙第三号証)において、控訴会社が同年七月一七日に前記納税告知書を受領したことを無条件に自認していることが認められるから、これらの各事実を合わせ考えると、控訴会社の本件事業年度に対する被控訴人の前記昭和二八年七月一五日附課税決定は、昭和二八年七月一七日控訴会社に送達されたものと認めるのが相当である。当審証人小森諒の証言(第一、二回)中右認定に反する部分は前掲各証拠に比照してたやすく措信できないし、他に右認定をくつがえすに足る的確な証拠はない。したがつて、控訴人のこの点に関する主張は理由がない。

三、次に、被控訴人の昭和二九年一月二一日附更正決定による本件事業年度の法人事業税金一、五五五、四七〇円の算定基礎となるような所得が控訴会社にあるかどうかが、本件の争点となつているが、成立に争のない乙第四号証によれば、被控訴人の右更正決定は、控訴会社の本件事業年度における法人所得が金一八、八五四、一九二円であるとして前記法人事業税を賦課したものであることが明かであつて、かかる法人所得の存否は、本件においては、昭和二三年一月頃から同年七月頃までの間に代金合計二、七二五万円で販売された皮革が、控訴会社の所有で、したがつてその販売による所得が控訴会社の所得として計上されるべきものであるのか、それとも右皮革が控訴会社の代表取締役である牧嘉六の個人所有に属し、したがつて右売却による所得が同人の個人所得と認めるべきか、の判断にかかつている。

そこで、この点について考えてみるのに、

(1)  成立に争のない乙第八号証の一ないし六、第九号証の一ないし三、第一〇、一一号証の各一、二、第一二号証、第一五ないし一八号証、第二一ないし二三号証、第二七号証と原審証人松本一夫、井上宣夫の各証言によれば、控訴会社は、牧嘉六の個人営業を会社組織に改めた同族会社で、同人が設立当初から代表取締役として実権を掌握し、同人のいわゆる個人会社にもひとしい会社であつたこと、牧嘉六側には、戦時中から疎開していた皮革約四〇万坪があつて、昭和二一年六月頃から逐次売却処分していたこと(ここでは、その皮革の所有者および売却の主体が控訴会社であるか、牧嘉六個人であるかの判断はしばらくおく)、控訴会社は、法人税の関係で、昭和二二年一二月一〇日大阪生野税務署長に対し、昭和二二年度(昭和二一年九月一日から同二二年八月三一まで)の事業年度における法人所得につき、欠損九一、六一二円の確定申告書を提出し、その後税務当局との間に右年度の所得および法人税額につき交渉をつづけていたが、昭和二三年七月九日頃税務当局に対し、前記皮革の売却による利益を控訴会社の表勘定に現わし該利益をふくめた決算書を添えて、税額を約二九〇万円とする修正申告をしようとしたことがあり、結局この事業年度の法人税の基本税額については、昭和二三年一〇月三〇日附更正決定によつて金二、五五八、九二六円と決まり、その頃控訴会社において納税したこと、控訴会社は昭和二三年六月二六日頃、本件事業年度のうち昭和二二年九月一日から同二三年二月末日までの中間事業年度分の法人税の申告につき、所得を金五三七、七八八円九〇銭、税額を二八〇、六二五円二〇銭とする中間申告書を提出する一方、前記のごとく昭和二二年度分の法人税に関して税務当局と交渉をつづけていたところ、昭和二三年七月二八日頃控訴会社の脱税容疑によつて検察当局から押収捜索を受け、じらい税務当局および検察官の双方から取調を受けるに至つたが、控訴会社の代表取締役牧嘉六は、右捜査の過程において、前記皮革は控訴会社が買い溜めた商品で、控訴会社がこれを売却して得た利益は控訴会社の所得であることを認めていたので、控訴会社は、前記生野税務署長から同年一〇月三〇日附で、右中間年度分の法人税につき、前記皮革の売却による所得をふくめて法人所得を金一〇、五一五、〇五四円、基本税額を金六、八一五、五三五円とする更正決定を受けたが、これを昭和二四年一月中に完納したこと、さらに控訴会社は、昭和二四年一月二四日生野税務署長に対し、本件事業年度の法人税につき、同年度間における前記皮革の売却による所得をふくめて所得を金一六、三六六、〇九四円、税額を金八、七五七、二二六円とする概算申告書を提出したが、同税務当局は昭和二五年一二月右所得を金二五、六七六、三五四円、税額を金一三、八五六、〇三〇円と更正し、次いで控訴会社よりの誤謬訂正の申出によつて、昭和二八年一一月三〇日右所得を金一八、八五四、一九二円、税額を金一〇、一〇三、八四一円と再更正し(右申告および所得額更正の点については、争がない)、この再更正決定は確定するに至つたが、右各更正決定中には、昭和二三年一月頃から同年七月頃までの間に前記皮革のうち約三四六、〇〇〇坪を代金合計二、七二五万円で売却して得た所得がすべて控訴会社の所得として計上されていたにもかかわらず、この点については、控訴会社としても、牧嘉六個人としても、何等の異議を述べなかつたことが認められる。

(2)  当審における控訴会社代表者牧嘉六本人の供述(第一回)に冒頭認定の控訴会社の設立以来の経過、成立に争のない乙第二七号証ならびに当審証人小森諒の証言(第一、二回の一部)によれば、牧嘉六はもと大阪市南区鰻谷西之町一四番地に店舖兼住宅を構えて、靴、スリツパ等の製造販売の個人営業を営んでいたが、そこは借家で倉庫もない状態であつたので、事業拡張の必要にともない、昭和一四年九月二七日控訴会社の前身なる立花サンダル工業株式会社を設立するとともに、その頃右借家を家主に返還し、事業所および住居を大阪市東成区北生野町一丁目一三番地に移し、ここを本店としたこと、ここは、長屋五軒のうち二軒を工場とし、あとの三軒を会社の倉庫兼牧嘉六の住居として使用していたが、軍需と統制の波に乗つて、営業は次第に隆昌に向かい、その間商号を牧製靴工業株式会社と改め、増資を行つたが、事業の進展につれてここも手狭まになつて来たので、昭和一八年頃東成区北生野町二丁目一九番地および二〇番地の土地約千五、六百坪を買収し、敷地約八〇〇坪の工場を建設し、昭和一九年八月三一日商号を牧軍需工業株式会社と改めるとともに、同日本店を右二丁目二〇番地に移転し、従業員約七〇人と動員工約三〇〇人を擁するほどの事業規模になつたことが認められる。

以上の(1)および(2)に認定した事実に前掲乙第一二号証、第一五ないし一七号証と当審における前記牧嘉六の供述(第一回)中の「昭和十七、八年頃からは手持ちの皮革約四四三、〇〇〇坪を保存していたが、右皮革は北生野町二丁目一九番地および二〇番地の倉庫に入れ、その後生家の三島郡五領村に疎開していたが、戦後に戦災跡を復興して再び持ち帰つた」旨の供述部分、当審における同人の供述(第二回)中の「本件の皮革は、買入れた時から個人ともつかず会社ともつかぬ帳簿があつて、それに記載されていた」旨の供述部分ならびに当審における証人小森諒の証言(第二回の一部)を総合すると、控訴会社は、牧製靴工業株式会社と称していた昭和一八年一月頃から昭和一九年八月頃までの間に、当時の時価で約五〇万円相当の皮革約四四万坪を購入し、会社の倉庫に蔵置していたが、昭和二〇年四、五月頃その大部分を牧嘉六の生家なる前記五領村に疎開し、戦後前記北生野町二丁目一九番地二〇番地の戦災跡に工場を再建するとともに、右疎開中の皮革を右工場倉庫に持ち帰えり、皮革のまま逐次売却処分していたものであり、したがつて、前記説示の「昭和二三年一月頃から同年七月頃にかけて皮革約三四六、〇〇〇坪を代金合計二、七二五万円で売却した」行為は、控訴会社自身の右手持皮革の処分行為にほかならないのであつて、控訴会社は、本件事業年度において、右売却による所得をふくめて、前記生野税務署長の昭和二八年一一月三〇日附更正決定で認定されたように、金一八、八五四、一九二円に達する法人所得を有していたものと認めるのが相当である。

もつとも、前掲乙第一六号証(牧嘉六に対する昭和二三年一一月四日附検事聴取書)には、「右皮革は牧製靴の前身である牧軍需工場株式会社の前身である牧製靴工業株式会社の頃に買ひ溜た品物でありまして昭和十三、四年頃であります。」との陳述記載があるが、この中の「右皮革の購入年月日が昭和十三、四年頃である」旨の陳述記載部分の意味に関しては、その前後の陳述を全体的に観察して、これと、当審(第二回)における前記牧嘉六の「控訴会社の出来たのは昭和一二年頃で初め立花サンダルと言つていましたが、昭和一四年頃牧製靴、その後牧軍需工業………と名称を変更してきております」との供述内容ならびに冒頭に認定した控訴会社の変遷経過を対照するときは牧嘉六は、右検事の聴取に際して、控訴会社の設立および商号変遷の年月日についての記憶が定かでなく、控訴会社が牧軍需工業株式会社となる前に牧製靴工業株式会社と称していた頃が昭和十三、四年頃であるとの記憶にもとずいて、かかる陳述がなされたものであることが明かであつて、右購入の年月日が控訴会社設立前の昭和十三、四年頃であることを意味する趣旨に解すべきではないから、右の陳述記載部分は上記認定の妨げとはならない。また、成立に争のない乙第二二号証、甲第三、四号証によると、本件事業年度の前記中間事業年度分に関する法人税逋脱等の容疑による刑事事件の第二審たる大阪高等裁判所の公判廷では、牧嘉六は、被告人として、前記捜査過程でなした陳述をひるがえし、本件の皮革は昭和十二、三年頃に自由に手にはいる頃に買つた旨供述し、また、昭和十一、十三年頃から買つたもので、買つた翌年控訴会社を設立したが、控訴会社に右皮革を引継ぐ能力はない旨供述し、同公判廷に証人として出頭した森田常次郎は、右皮革は、控訴会社のできていない当時、牧嘉六個人に売つたもののごとく証言しているが、前記皮革の購入に関する右の供述ならびに証言の記載部分は、上叙の証拠ならびに説示理由に照してにわかに信用し難いところである。もつとも、成立に争のない甲第二号証によれば、前記刑事事件の第二審判決では、同公判廷における牧嘉六の右供述に依拠して、前記皮革は、牧嘉六が昭和十二、三年頃個人で買受けたもので、その売却による所得は同人の個人所得であると認定し、起訴にかかる牧嘉六の法人税逋脱の点について無罪の判決が言渡されている(右無罪判決の言渡のあつたことは、争がない)が、かかる刑事判決の存在は、当裁判所を拘束するものではないから、本件における上記認定の妨げとなるものではないこと、もとよりであるが、右刑事判決の示す所得認定は、上叙の理由により当裁判所のとらないところである。さらに、当審における証人小森諒の証言および控訴会社代表者牧嘉六本人の供述(いずれも第一、二回)中、上記認定に牴触する部分は前掲の証拠および説示理由に照して信用できないところであり、他に上記認定を動かすに足る的確な証拠はない。

そうすると、被控訴人が控訴会社の本件事業年度の所得額を金一八、八五四、一九二円と認定し、これを基礎として、その法人事業税を上叙のごとく金一、五五五、四七〇円と更正決定したことは、正当であつて、控訴人が右所得のなかつたことを理由として該更正決定の取消を求めるのは、理由がない。

四、さらに、控訴人は、国税から形式も実質も独立した地方税である法人事業税の課税決定に当つては、地方団体が独自で調査して得た資料にもとずいて税額を決定すべきものであり、しかもその決定は所得が発生した事業年度に近接した時期において行われることを要請されているのにかかわらず、被控訴人は一回の調査をもしないで五年を経過した昭和二八年になつて、国税である法人税の課税標準をそのまま地方税である法人事業税の課税標準として課税決定したから、被控訴人の本件課税決定は、違法であると主張する。しかしながら、被控訴人の本件更正決定は昭和二九年一月二一日附でなされてはいるが、控訴会社の本件事業年度の法人事業税に関して、被控訴人はそれ以前の昭和二八年七月一五日に課税決定をなし、同決定が同月一七日控訴会社に送達されたことは、上叙認定のとおりであつて、控訴会社の本件事業年度の法人事業税に関する課税決定は、これに関する控訴会社の申告期限の昭和二三年一〇月末日より起算して五年以内になされたことが明かであるから、この点に関する控訴人の主張は理由がないし、また、控訴会社は、本件事業年度において、上叙のとおりの法人所得を有しておりながら、法人事業税の申告義務に違反してその申告をしなかつたものであるから、被控訴人側の怠慢を非難するのは、当らないし、さらに、控訴会社が上叙のとおりの法人所得を有する以上、たとい被控訴人が国税たる法人税の課税標準を基礎資料としても、何等違法ではない。控訴人の右主張はいずれも理由がない。

五、以上の次第で、被控訴人の本件更正決定には何等違法の点がなく、その取消を求める控訴人の本訴請求を棄却した原判決は、結局正当である。よつて、本件控訴を棄却し、控訴費用の負担について民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 沢栄三 木下忠良 斎藤平伍)

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